3月11日

忘れないうちに3月11日のことを書いておこう。

3月11日(金)は家で仕事をしていた。その時間(2時45分頃?)は二階で作業をしていた。地震でぐらぐら揺れだしたが揺れは大きくなく、最初はよくある地震だと感じていた。揺れが収まらずだんだん揺れが大きくなり、これはちょっといつもと違うぞと思って裸足のまま家の外へ逃げた。ご近所さんも外へでており、顔を見合わせて「大きな揺れですね」と声をかけあった。

揺れが止まり、家のなかへ入るといろいろなものが散乱していた。幸い本棚や食器棚が倒れたりはしていなかった。カメを飼っている水槽の水が半分くらい床に落ちていたが、カメはちゃんと水槽のなかにいた。どうしたものかと呆然としていると、ドアがトントントンとノックされた。小1の娘の同級生のNちゃんのお母さんだった。

「学校に迎えに行きませんか?」と言われ、そうだ、迎えに行かなきゃと思った。家のインターホンが鳴らなかったと言われ、そのとき初めて停電していることに気がついた。二人で小学校へ歩く道々余震があってまた揺れていた。小学校に着くと全校生徒がグラウンドに退避しており、保護者も何人か迎えに来ていた。先生と二言三言話をし、地震が収まったようなので小4の長男はランドセルを取りにもどって自分で帰宅、小1の娘はさよならの挨拶の後だった事もあって帰宅準備ができている状態なので私とNちゃんとNちゃんママと集団で下校することになった。

家へ帰ってからも余震が怖かったので、私と子供達はしばらく家の外で様子見状態だった。電池で聞こえるラジオがあったので、外でずっとラジオを聞いていた。電話は不通状態だったが、かろうじて携帯メールが使える時があり、私と子供達が無事である事を仕事場の妻と北海道の実家にメールした。ラジオはずっと震災のニュースを流していたのでどういう状態なのか把握でき、おかげでパニックにはならなかった。だんだんと日が暮れ、寒くなってきたので家へ入った。

夕暮れ家のなかは暗かったので懐中電灯を一本だけつけ、3人でこたつに入ってラジオを聞いていた。電気とガスは止まっていたが、水道は止まっていなかったのでとりあえず鍋と風呂に水をためて断水に備えた。棚から菓子類を出して3人でポリポリと食べていた。夕飯をどうしようかと思ったが家で料理は作れない状態だったので3人で駅前に行ってみることにした。

街灯も消えて駅前までの道は暗かった。余震で壁が倒れてくることを気にしながら駅前まで行ってみると、そこは停電していなかった。牛丼屋もフツーに営業していたので3人で牛丼を食べたが、よく考えると電車は止まっており、牛丼屋のアルバイト店員は交代しないままずっと働いている様子だった。客はたしかに多かったが外に列をつくるほどではなく、案外普通の日のような様子だった。ご飯のあと近くのスーパーに寄ってみると見事に乾電池と懐中電灯が売り切れていた。帰り道家に近づくとやっぱり停電で街灯がないため暗く、そのぶん星空がきれいに見えて普段なら見えないオリオン座の小さな星まで見えた。

電車が動かないため、妻は帰宅をあきらめて職場近くに住む友人宅に泊まることにした。私と子供達は相変わらず暗くて寒い家のなかで懐中電灯一本つけ菓子類をポリポリと食べながらラジオを聞いていた。9時近くなりそろそろ寝るかと思ったとき電気が復活した。このときはじめてテレビで地震と津波の映像を見ることができ、改めてとんでもない事になったと思った。子供達を先に寝かせ、私はずっとテレビとネットで事態の把握に務めた。

固定電話や光回線のネット、携帯電話、WiMAXはどれもだめだったが、携帯メールはたまにつながる時があり、PHSは問題なくつながった。PHSでPCをネットに接続するとFacebookで関西や海外の友人達が非常に心配している様子だったので、私と家族は大丈夫と書込みした。またGoogleのPerson Finderというサイトがすでに立ち上がっていたので、そこに私と家族は無事でここにいるとステータスを登録しておいた。

ここまでが3月11日の出来事。

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