ばんえい記念雑感

週末の3/25に北海道帯広市でおこなわれた、ばんえい競馬のレース「第50回ばんえい記念」を見にいってきました。私は帯広市の出身で、盆や正月に家族で実家に帰省した時に子供たちを連れてばんえい競馬を見にいったことはあるものの、時期的に帯広にいる事が難しい(3月の末に開催される)「ばんえい記念」は見た事がありませんでした。今年は節目となる50回目との事で、思い切って一人で飛行機に乗り、実家に泊まって大一番のレースを見に行きました。

節目のばんえい記念にあわせ、色々な人のインタビュー動画というのがYouTubeに上がっていました。そのうち北海学園大学の古林先生のインタビュー「ばん馬が刻む歴史と、その姿に魅せられて」を非常に興味深く拝見しました。

古林先生くらいの世代の北海道の人は馬と一緒に働いた経験があると。

自分(47歳)の両親(73歳と77歳)もそういった時代を生きていたのだろうか。その頃の話を聴いてみたいというのも旅の目的の一つでした。話を聴いてみたところ、確かに両親は馬と人がいっしょに仕事をしていた時代を過ごしていました。

母親の話

私の母親の実家は畑作農家でした。まだ農業機械が普及する時代ではなかったので、労働力として馬も飼っていました。子供の頃の母親は、学校から帰ってくると藁を裁断して馬の寝床にする作業をしていたそうです。また母はやった事はなかったそうですが母の兄は荷馬車を操って物を運んだりしていたそうです。動画の荷馬車の写真を見せると確かにこういった光景があったと言っていました。また牛も一頭おり酪農家になる事も当時模索していたようでした。時代が進み農業の機械化の時代になってきたものの、母の実家は機械を買うお金が無かったため、離農して母の父(私の祖父)は勤め人になりました。

父の話

父の実家も畑作農家でした。やはり使役馬がおり父も荷馬車を操った経験がありました。また父は農協で他の農家の手伝いをしており農家をまわって馬の種付け?をしたこともあると言ってました。ばんえい競馬の馬ほど大きい馬は農作業には向かないようで、ばんえいで走っている馬より一回り小さい馬を使っていたそうです。農業の機械化が進むと父は農協で農協の機械を運転し農家をまわって農作業をするようになります。そのうち故障した農業機械を安く譲り受け、それを自分達で修理して使い、父の実家は機械化農業へ転換しました。牛を飼い始めて酪農にも転換し、現在でも父の実家は酪農家を営んでいます。今でも馬も数頭飼っていますが、農作業や運搬にはもう使われていないそうです。父自身は公務員になり定年まで勤めあげました。

ばんえい記念の日、父と母を帯広競馬場に連れて行きました。競馬場の一角に資料館があり、古い時代のばんえい競馬の写真が飾ってありました。昭和30年頃のばんえい競馬の写真がありその風景写真を父は懐かしそうに見ていました。


ばんえい記念にて、出場馬の入場行進が自衛隊音楽隊によって華やかに演奏された後、音楽隊のミニコンサートがおこなわれました。演奏をぼんやり見ていると、すぐ近くに砂川元帯広市長が立っているのに気が付きました。プライベートで来ていたらしくラフな格好だったのですが、砂川氏に気が付いたらしい馬主さんらしき人達が二三挨拶をしに来ていました。砂川氏は帯広氏がばんえい競馬の単独開催による存続を決めた時の市長です。ニコニコと楽しそうに音楽隊のミニコンサートを楽しんでいる様子でした。

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *