ほいくえん

今日も長女を保育園に車で送りに行く。

長女を保育園に送り迎えするのは私の仕事だ。お昼寝のシーツを取り替えたり、予備の衣服を補充したり、水遊びのための水着も用意したりする。保育園周辺は子供が飛び出したりするので、最徐行で車を入れる。長男は幼稚園だったが、幼稚園はお弁当を用意したり夕方まで預かってくれなかったりと大変だった。保育園に送り迎えするのはほとんど母親ばかりだが、なかには私のように父親が送り迎えする人もいる。保育士も女性だけでなく、男性の保育士もいる。子供の面倒を見る男性という存在は子供にもいい影響を与えるのではないかと思っている。昔より少しは生きやすい時代になったのではないか。

だらす

今日、食あたりした。

昨日の晩作った炒飯を冷蔵庫に入れずにおいて置いて、今朝食べたのだが、みごとに当たってしまった。大丈夫かどうかわからなかったので、子供達には食べさせなかったのは幸いだった。10時ごろゲーゲー吐いて、それから下痢した。「水状」のものでなく完全に「水」が出てきた。これはまずいなと思い、すぐ近所の内科に行った。

抗生物質、整腸剤、吐き気止めをもらった。当分は炭水化物中心の軽い食事を取るように言われた。この病院はいちおう内科だが、老人がおおいこの地域の「かかりつけ医」のような存在で、診察は午前中だけ、午後はずっと往診である。私より若い慶応出の開業医だが、目の付け所がいいと思う。

そういえば、昔アメリカのテキサス州ダラスに長期出張していた時に持病が悪化した事があった。アメリカでは、病人はまず何でも診る「かかりつけ医」に診てもらい、手に負えなければ専門医を紹介するというシステムだった。私がそのとき診てもらったかかりつけ医は、中東系の腕に刺青をした若い女性の医者だった。彼女に処方箋を書いてもらい、薬局へ行って薬を出してもらった。会社が用意してくれた海外でも使える民間保険のカードを持っていたが、日本で通院していた病気が悪化した事態にはこの保険は使えないと言われてしまったので、実費で払った。1万円ちょっとぐらいだったように思う。「身分証明証を見せて頂戴」と黒人の受付のおねーちゃんに言われて国際運転免許を見せたら「こんなのあるんだ。はじめて見たわ」とたいそう驚いた様子だった。

この時役にたったのがJCBの付いたカードだった。今でも同じサービスをしているのかわからないが、海外主要都市にはJCBのヘルプデスクがあって、日本人が日本語でカード所有者をサポートしてくれた。それまで海外で医者にかかったことがなかったので、どうしたらいいかはJCBヘルプデスクに教えてもらった。ダラスの隣町のフォートワースへ行けば日本語が通じる医者がいるという事も教えてもらったが、そこまで行くのは遠かったので、結局一番近い医者を教えてもらった。今となってはいい思い出である。

ねんきん4

口約束で年800億円も動かせるものですかね。

契約書作らず年800億円 社保庁、NTTデータに

口約束でシステムの開発をスタートさせる事はよくある事だ。「今稟議をまわしているところなんだけど時間的に間に合わないから開発はスタートしてほしい」というのはベンダーがよく聞く言葉だろう。ただこれはベンダーにとってはハイリスクな取引だ。人員を投入してシステム開発をしたところで結局発注されない事があるからだ。契約がないから裁判してもベンダーが負けるし、そもそもベンダーは客に裁判をおこさない。結局リスクの分だけ金額を上乗せして請求する事になる。

それにしても、契約書なしで年800億円も発注するなんて、ちょっと聞いたこともない。

まんが

長男Tは最近マンガをよく読んでる。

読むのは「コミックボンボン」や「コロコロコミック」といったマンガ雑誌だ。きっかけは、わんぱく相撲大会の残念賞でマンガ雑誌をもらった事だった。見たら、表紙は「ゲゲゲの鬼太郎」だった。もちろん水木しげるが描いているわけではなく、違う漫画家が描いているのだが、懐かしい。絵は今風にかわっていて「猫娘」なども昔の化け猫風ではなく、かわいく描いてある。妖怪マンガは今の子供達も面白いと思うのだろうか。そういえば長男Tはうっそうとした林の近くを歩くのを怖がるのだが、そこに妖怪の気配を感じているのかもしれない。

さらさら

「あなたの血液はドロドロですよ」と言って客を騙す商法があるらしい。

「ドロドロ血」商法 「説明なく次々契約」(産経新聞)

そもそもテレビでよくやってる「サラサラ血」「ドロドロ血」とはどういうものか調べてみた。

血液サラサラ – Wikipedia

なんと、医学的には根拠がないばかりか、高脂血症とは何の関係もないらしい。高脂血症との関係を「故意に混同させて」広くイメージを流布させたテレビ局は、詐欺の片棒担ぎと言われても仕方ないのではないか。

さらべつ

僕が思い出せる最も古い記憶は更別村の風景だ。

更別村には幼稚園の年中組まで住んでいた。畑が地平線の先まで続いていてそこにアスファルトの道が1本通っているだけの風景だった。家の近くには消防署があった。兄は更別小学校に通っていて、なぜか私も「さらべーつ、さらべーつ、さらべーつしょーがっこー」という校歌を覚えている。よく母親に連れられて広尾線に乗って帯広に行ったものだった。私は帯広の病院で産まれたのだが、当時両親は大正町に住んでいて、その後更別村に引越ししたと聞いた。その頃怪獣映画「モスラ」を劇場に見に行った記憶があるのだが、調べてみると「モスラ」の公開は1961年、私が産まれたのは1970年だから計算があわない。当時「ミリンダ」という飲み物をよく飲んでいた記憶があるが、これは1964年から80年頃まで売っていたというので、記憶ちがいではないだろう。更別村には自動車の修理工場が一つだけあって、私はそこのむっちゃんという子供と仲良しだった。

更別村の農家は、一戸あたりの耕地面積が32.3ヘクタールという。全国平均が1.57ヘクタールなので、ぜんぜん規模が違うという事だ。

うんどうかい

昨日は、長男Tの学校の運動会だった。

とうとう私も子供の運動会に親として参加する年になったのだ。Tは、はりきっていた。リレーの選手に選ばれたからだ。私もOさんも運動は得意ではないのに、なぜかTはスポーツは何でも得意である。前日は雨だったのではたして運動会は行われるだろうかと思ったが、ちゃんと晴れた。行ってみると、そこはまさしく私の知っている運動会であった。短距離走があって、応援合戦があって、リレーがあって、玉入れがあって、父兄参加の綱引きがあって、大玉転がしがあって、ソーラン節があった。赤組と白組があって、Tは白組だったが、今年の総合優勝は赤組だった。今年でこの小学校は45回目の運動会という事だった。私もOさんもTも長女Sも、日焼けで真っ黒になった。だから今日は、腕と顔の皮膚がピリピリして痛いのである。

ようれんきん

ひどい目にあった。溶連菌感染症にかかったのだ。

溶連菌感染症 – Wikipedia

月曜日に熱が出てかぜかな?と思ったのだが一晩中熱が38度5分のまま下がらない。頭痛がひどい。関節も痛い。くしゃみや鼻水はない。妻もまったく同じ症状で寝こんでしまった。火曜日に2人で病院に行って見てもらったのだが、かぜではなくて溶連菌だった。2人ともふらふらの足取りで薬を受け取り、その場で1回目を飲んだ。抗生物質を一週間分と解熱剤等を2、3日分もらったのだが、火曜日の夕方にはだいぶ良くなっていた。腎臓に機能障害を起こす可能性があるとかで、3週間後に尿検査をすることになった。

溶連菌は普通子供がかかる病気なのだそうだが、我が家の2人の子供達はぴんぴんしていた。